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でんわde名作劇場 SPAC [今だから]

劇場に行きたいけど行けないし、そもそも上演もされない・・・今もこんな状況が続いていますね。

オンラインで動画をみるということも一般化してきて、コロナ禍ならではといえるオンラインライブの取り組みもさまざまなところではじまっています。1つの転機から進化がはじまるということは肌で感じつつ、それでもやっぱりライブの魅力にふれたいという方は多いかも知れません。「あああ、ライブで舞台作品にふれたいっ!」そんな願望をお持ちの方も多いはず(笑)。

静岡県舞台芸術センターの取り組みは、もしかしたらコロナ禍ならでは、もしくはそれ以上の大発明になっているかも知れません。

なんと、役者さんから直接電話がかかってきて、作品を朗読してれるという上演スタイルに取り組んでいるんです。電話もオンラインには違いありませんが、いやいや、だって、ダイレクトにですよ!ドキドキが違いすぎませんか(笑)。


この取り組みは5月からスタートしているようで、好評につき10月も継続開催されます。1回10分から30分の朗読を聞かせてもらえて、30分以内の何気ない会話ならOKというユニークなもの。価格も一般は1000円とカジュアル設定。スピーカーフォンにして演劇好きな友達と一緒に楽しんでもいいですよね。

今だからこその、これは代替上演というより贅沢上演。
ぜひお試しを!


■でんわde名作劇場:https://spac.or.jp/2020-6/tele_theater


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レジ前おむかえアート [今だから]

コロナ禍になって、感染拡大防止策がさまざまなところで展開されています。
新型コロナウィルスについての知見も徐々にわかってきて、感染拡大当初より少しだけ世の中も落ち着いてきた部分もありそうです。

とは言え、いろんなところで見かける飛沫防止のビニールカーテンやパーティション。
わかっちゃいるけど、殺風景(涙)。
私はつい、クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンの『最後の教室』(@越後妻有)の奥の展示室を思い出してしまって、なんか怖くなります(・・・妄想過多)。

でも、そこを逆転の発想で明るく楽しい空気のように変換してしまった人たちがいます。
佐賀県有田町で広告デザインを中心に、イベント企画などを手掛ける小松大介さんが代表を務める
『おむかえアートプロジェクト』です。


彼らは依頼を受けると、現地まで出向いてヒアリングを行い、飛沫防止のビニールカーテンを依頼者や場所に応じた「おむかえアート」として制作しています。あの殺風景だったビニールカーテンが、文字通りお客さまを“おむかえしてくれる”作品になっているんです、すごいですね。

で、佐賀県のプロジェクトと聞いてガッカリされた方も多いかも知れませんが、ガッカリするのはまだ早いですよ(笑)。実はこのプロジェクト、参加アーティストを全国から募集してネットワークを拡げているんです。

コロナ禍でお仕事が減ってしまったアーティストやクリエイターさんも多い状況ですが、こうしたネットワークに参加して、ぜひ世の中を少しでも明るくハッピーにして頂けたらステキだなって思います!

ぜひぜひ、一度チェックしてみて下さいね。
依頼する方も登録アーティストがいれば、全国どこからでも依頼できると思いますよ~。


■レジ前おむかえアート:https://peraichi.com/landing_pages/view/omukaeart

■おむかえアーティスト byおむかえアートプロジェクト:https://www.facebook.com/groups/532828824054570/



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アートに出来ること(まとめに代えて) [今だから]

拙い言葉と未熟な知識とで、自分なりに今の状況の糧となる言葉を探し求めた「アートに出来ること」(今だから)のシリーズ。昨年開催された『あいちトリエンナーレ2019』の出品作品のレビューを借りて紡ぎました。


『あいちトリエンナーレ2019』は、ある作品群の出展によってある種の喧噪を巻き起こしましたが、私自身もそうした影響を受け、1つ1つの作品について向き合って言葉を発するということが出来ていませんでした。「いつか時間をつくってレビューしたい」という想いだけを抱えて過ごしていました。

思いがけず新型コロナウィルスの拡散によって家から出られない生活を送ることになりましたが、このような誰も経験したことのない状況にこそ、アートという創造性によって生み出された存在にヒントを得ることが出来るのではないかと考えました。『あいちトリエンナーレ2019』とコロナ禍・・・喧噪のただ中にあって前が見えないという状況が私の中で重なり、今回の試みを実行することにしました。

ただ、最後にもう一度補足させて頂きたいのは、トリエンナーレの作品を時勢の枠に押し込めることが目的ではないということを重ねてお伝えしたいと思います。美術館や劇場が閉鎖され、表現する人たちの活躍の場が失われている現状において、アートが社会に糧となる希望や可能性を示唆するものだということを発信したいというのが本意。そうしたことが、少しでも出来ていればとても嬉しいです。


まだまだ社会は困難な道を進まなければなりません。けれども諦めず、打ちのめされても何度も立ち上がって進んでいきたい。そこに人々と共にアートがあると信じて・・・。


このシリーズはいったん、この記事を持って終了と致しますが、このシリーズをきっかけに投稿頻度を取り戻すことが出来ましたので(苦笑)、引き続きアートに関する記事を発信していこうと思います。鑑賞者、アーテイスト、両者にとって貢献できる存在になれば幸甚です。

ご愛読いただき、ありがとうございました&これからも、どうぞよろしくお願いいたします!



2020年5月31日 Arts&Theatre→Literacy 亀田恵子
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アートに出来ること(13) [今だから]

私は昭和生まれなのですが、昭和・平成・令和と思いがけず3つの元号を生きることになりました。戦争こそ経験はしていませんが、樺太から最後の引き上げ船で日本にやって来た母親の体験談はまだ聞ける状態ですし、そこからの自分の命の繋がりを考えれば、やはり激動の時代を生きてきているんだと感じます。1995年の阪神大震災の時には、会社の食堂に設置されたテレビで焼け野原になった神戸の街をみて愕然とし、2011年の春は足のケガで自宅療養中でしたが、東日本大震災で津波が街を飲み込んでいく映像を目にして激しい哀しみに打ちひしがれました。

私自身が2005年くらいからアートに関わるようになったこともあり、2011年の震災後のアーティストの動きは自然と注視していましたが、当時、表現活動に関わる人たちは大きな苦悩を抱えていたように感じました。身近なダンサーで「自分に何が出来るのかわからなくなった」といって踊るのをやめてしまった人もいましたし、あまりに直接的な表現を含んだ作品を上演してかえって人々を傷つけたのではないかと思われる事態も生じていました。動けばいいのか、動くとしてもどう動けばいいのか。社会はそんな逡巡に満ちていました。人智をはるかに超える状況を前に人はどうすればいいのだろうか・・・アーティストたちは大きな課題にぶち当たっていたのです。


「作品化」するという行為は、つくり手がどのように事象を受け止め、どう“解釈”したかをある構造の中で提示するものだとして(諸説あると思いますが)、その“解釈”の部分がアーティストのセンスであり、力なのだと思います。センスと力は、鑑賞する人々の心を動かすものであり、社会をも動かしていくもの。だからこそ、アーティストは自分が生み出す作品が人に、社会に、どのようなインパクトを与えるのかも考える必要があるのだと思います。2011年の例をとるなら、災害直後で現実に打ちのめされている人々に同じような光景を再現して見せることが、鑑賞者をどのような心情にさせるのかは考慮されるべきですし、あえて傷をつけるのであれば明確な目的とそこに伴う責任も負う覚悟は必要です。自分の作品で伝えたいこと(メッセージ性を持たせない作品もありますが)を、どういった状態の社会に、どのような手段で表現するのか。こうしたことを考えることがアーティストにも求められるのだと思います。



前段が長くなってしまいましたが、あいちトリエンナーレ2019で上演された演劇作品に、こうしたことに対するヒントになると思える作品がありました。ミロ・ラウ(1977年・スイス生まれ:IIPM) + CAMPOの『5つのやさしい小品』です。


この作品は、90年代にベルギー社会を震撼させた少女監禁殺害事件を当時の報道や証言を踏まえ、7人の子供たちが「再演」したもので、事件そのものについては、当時のベルギーではあまりの痛ましさと小児性愛という闇の部分を含んでいたため、話題にあげるのも忌避されていたようです。そんな強烈な痛みを伴う事件をミロ・ラウは丹念に調査し、犯人・被害者ともに“子どもたち”に演じさせることで、状況を異化。生々しい痛みといったん距離を置いて状況を見つめられるような仕掛けを施しています。

この作品がこうした手法を取ったのは、残忍で歪んだ性愛者の心情を描くことが目的ではなく、ベルギーという国が抱えていたさまざまな課題を暴くためでした。なぜこうした犯罪が起きたのか、犯人がどのような状況に置かれた人物だったのか、そうした本質に迫るために登場人物たちを(1名だけ大人が登場していたように記憶しています)子どもたちに演じさせるという手段を選択したのです。


コロナ禍のただ中にある今、社会ではさまざまな変化や痛みが生じています。アーティストと呼ばれる人々は、この状況からきっと作品を立ち上げていくことになると思いますし、それが彼らの使命でもあります。この状況をどのように解釈し、社会に向けてどのように表現していくのか。そこには作り手のセンスと力が問われます。とても大きな課題ですが、今だからこそ、この難題に果敢に取り組んでいってほしいと願いますし、私自身も挑んでいきたいと考えています。

https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A61.html
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アートに出来ること(12) [今だから]

新型コロナウィルスによる感染症により、世界中で大勢の尊い命が失われています。心より謹んで哀悼の意を捧げます。


新型コロナウィルスの拡散防止のため、私は自宅で過ごすことが多くなりました。少しでも自分が前向きになれることを探して始めたのが「手紙を出すこと」です。“手紙”といっても懸賞の応募ハガキ(笑)だったり、遠隔地の恩人や母親への近況報告をするハガキが大半。どれもさほど時間のかかるものではありませんが、それでも送る人への想いを込めて書くときには言葉を探し、ときには手を止めお茶を飲み、書き終えるときには少しだけ達成感なども感じています。書き終えて見直すと、ところどころインクが滲んでいますが、それは言葉を探して一瞬ペンが止まったときと重なっています。何気なく書いたハガキにも、どことなく書き手の姿がみえてくるものだなと微笑ましく思えました。


あいちトリエンナーレ2019には、現代らしい最新テクノロジーを駆使した作品も数多く出展されていて、国際芸術祭はテクノロジーの祭典とも思えるほど(もちろん、芸術祭はテクノロジーだけではなく、作家という作り手が介在する分、その存在価値は違うもの)です。その中でもユニークだと感じたのはdividual Inc.(2008年に東京都にて設立)の『ラストワーズ/タイプトレース』でした。


dividual Inc.は、メディアアーティストの遠藤拓己と情報学研究者のドミニク・チェンによって設立されたベンチャー企業(のちにクリエイターの山本興一が合流)で、アーティストと情報学者によるベンチャー企業という存在も興味深く感じます。

この作品は、オンライン上の応募によって参加した人々が「あと10分で死ぬとして愛する人に最後に伝えるメッセージ=遺言」をタイピングしたときの様子を“生身のリアリティを持って可視化”し、会場内に設置した24代のiMacで再現(自動で打刻されていく)したインスタレーション。ここでいう“リアリティを持った可視化”というのは、書き手が言葉を紡ぎだすまでにためらって時間がかかるとフォントサイズが大きくなり、すらすら打てているとフォントサイズは小さくなると解釈されています。デジタルなのに、まるで手書きのハガキにインクが滲んでいるような、そんな人間らしさを感じるのが不思議です。


新型コロナウィルスに感染し、亡くなった方々のことはテレビニュースなどで伝え知るばかりですが、中には突然重症化されて病院に入院。そこで感染がわかり近親者ですら会えない状態になり、亡くなる瞬間にも立ち会えず、お骨になって自宅に戻られるという言葉では言い表せない大変な悲しみと苦痛を経験されているご遺族がいらっしゃると聞きます。あるご遺族の方が「・・・なんだか死んだ気がしないんです。突然すぎて・・・。どこかにまだ旅でもしているのかなって。」とおっしゃっていました。命が消えていくのは人間として生を受けた私たちには誰も避けることの出来ない宿命ともいえますが、それでも命が消える前には愛する人たちにそばにいてほしい/そばにいたいと願います。自分が消えていくであろうことを理解しつつも、遺していく愛しい人たちに想いを込めて、ときにためらい、ときに記憶を辿りながら幸福なときを思い出したりして、せめて自分の想いを伝えたいと夢想します。それは最期の、本当にささやかな望みのはずです。・・・それすら絶ってしまう、新型コロナウィルスがもたらす死は、やはり避けなければならない死なのかも知れません。


日本の自粛によるコロナウィルスの第1波の抑え込みは、海外の人々からは“奇妙な成功”だと言われていますが、私たちはこの“奇妙さ”を持って、新型コロナウィルスで命を失う人をひとりでも無くさないといけない、私は心の底からそう思います。

がんばろう、日本。
負けるな、私たち。
世界中が笑顔になれる、その日まで。



https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A71.html
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アートに出来ること(11) [今だから]

保育園に入園した5歳児のころから社会人になった今まで、私は朝起きて寝るまでの時間の多くを“家の外”で過ごす生活を送ってきました。“家”は、そこに戻れば食事をしたり、家族と話したり、テレビや漫画(笑)をみて寛いだりする場所でしたし、時には成長途上の通過儀礼としてケンカをする場所でありました。でも、生活のすべてがそこにあったわけではない・・・今は社会人以後の生活様式はもっと多様になっていると思いますが、それでも1日の多くを“家の外”で過ごす日本人は多いはずです。限られた“家なかタイム”ではありますが、案外“その人らしさ”が滲んでいるのではないでしょうか。



あいちトリエンナーレ2019年の看板的な作品のひとつともいえるのがウーゴ・ロンディオーネ(1964年・スイス生まれ)の『孤独のボキャブラリー』という作品だと思うのですが、この作品は愛知県美術館の大きな白い空間の中に置かれた等身大のピエロたちが展示されたインスタレーションで、寂し気に目を閉じた白塗りの顔と、ピエロたちが身に着けたサイケデリックな衣装が大変フォトジェニックでした。この会場には朝から晩まで、それこそお子さんから大人まで、多くの来場者がピエロの傍らに“座ったり、寝そべったり、見下ろしたり”して写真を撮っていました。・・・“座ったり、寝そべったり、見下ろしたり”・・・来場者がそうするのは、ピエロたちの姿がさまざまな格好をしているからでした。あるピエロは壁にもたれかかってボーッとしているような恰好をし、あるピエロはひとり膝を抱えた格好をしているといった具合です。この格好、なんと48もあって、それぞれに人間が1日のうちにする行為の名前が付けられているんです。例えば・・・居る、息をする、夢を見る、起きる、立ち上がる、座る・・・料理する・・・罵る、あくびをする、服を脱ぐ、嘘をつくといったもの。中にはおならをする、なんていうものも(笑)。



新型コロナウィルス拡散防止の対応で、多くの方が家の中で1日の大半を過ごす日々が続いています(2020年5月25日現在では全国に発布されていた緊急事態宣言は明日解除となることが発表されましたが)。1日の限られた時間を過ごすはずの“家の中”では、1日の大半の時間を過ごすように変わり、当然ながら、そこに暮らすひとりひとりが顔を合わせて過ごす時間も否応なしに増えています。この状況下で一層の絆を深める人々がいる一方、家庭内暴力に歯止めがかからず苦しむ人々、互いの価値観に大きな違和感を感じて離婚にまで至る人々もいるようです。ひとりで過ごす人々の中には自分ひとりでいることへの孤独感を強め、いつもは感じることのない苦しみに戸惑う人々がいるかも知れません。


『孤独のボキャブラリー』はどこか寂し気で、作品タイトルにあるような孤独感もまとっています。けれども、不思議なほど穏やかで安堵する空気も生み出しているように感じられます。カラフルな衣装に身を包んだピエロたちは、もしかしたら家の外では自分の感情を押し殺して笑顔をつくり、他者を笑わせようと努力しているのかも知れません。そんな彼らが家に帰り、ひとりになった時に訪れる静かな孤独は、偽りの自分を昇華し、本来の姿を取り戻すための浄化のようにも思えます。

コロナ禍にいる私たちは、孤独がもたらす浄化時間さえ喪失しているのではないか・・・ふと、そんなことを感じます。誰かと一緒にいること、自分ひとりでいること・・・どちらもやはりバランスが大切。間もなくやってくるアフターコロナ、withコロナの新しい生活では、改めてこうしたバランスのとり方が問われることになるでしょう。




https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A06.html
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アートに出来ること(10) [今だから]

新型コロナウィルスの対応として世界中が“ロック・ダウン”し、今は国と国との間の移動はほとんどなくなっています。ここでいう“移動”は人だけでなく、リサイクルゴミなども含まれます。日本はプラスティックゴミや古着を大量にアジア諸国に“輸出”していますが、それが出来なくなった今、行き場をなくしたリサイクルゴミが国内に多く滞留しているといいます。

そもそも日本がなぜ海外に(リサイクルと名前はついているとしても)“ゴミ”を輸出しているのかといえば、手間のかかるリサイクル処理の人件費が日本では捻出できず、アジア諸国など人件費が安い海外で処理しているからなんですね。言い換えれば「日本はアジア諸国に自国のゴミ処理を押し付けている」という状態なのです。


あいちトリエンナーレ2019のプレ・オープンの日、私は名古屋市美術館の外のわき道を歩いていました。夏の暑い時期ではありましたが、祝祭ムードにあふれた時期だったため、どこか足取りも軽やかでした(笑)。そんな時、ふと目に留まった鮮やかでポップな図柄。よく見ると通路にそって置かれたゴミ箱の袋の模様のようです。私は何気なく近づいていってハッとします。その図柄はアフリカ諸国の国旗だったからです。ゴミが捨てられるのを受け入れる袋・・・それがアフリカ諸国だという明確なアイロニーと強いメッセージを感じて衝撃を受けました。

これは単なるゴミ袋ではなくバルテレミ・トグォ(1967年・カメルーン生まれ)の作品だったのですが、カメルーン出身であるバルテレミは、西洋とアフリカの関係性を背景に作品を作り続けているアーティスト。植民地時代から続く歴史の中で支配的なふるまいを受けていたアフリカ諸国の姿を思い出してみると、この作品のアイロニーは心揺さぶられるものではないでしょうか。


2019年5月、スイス・ジュネーブで開催された国連環境計画(UNEP)の会議ではプラスチック廃棄物の輸出を制限する条約、「有害廃棄物の国境を超える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」(以下、バーゼル条約)の改正案に日本を含む180カ国近くが合意しています。これにより、遠くない将来、日本はプラスティックゴミの輸出が難しくなることが予測されます。自分たちの手に余るものを他者へと押し付けるという手法は、いよいよ通用しない時代を迎えているのでしょうか。

コロナ禍で自分たちの弱い部分、改めるべき点があぶり出されていきます。これを禍とするか、新しい未来への転換点と捉えるかは私たちの行動で決まっていくのかも知れません。

世界は対等である、そんなことを強く意識しています。



https://www.dailymotion.com/video/x7tzomv

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アートに出来ること(9) [今だから]

未知の出来事に、日々いろいろな情報を求めてニュースを見たり、特集番組を見たり・・・だけどそんなことに疲れを覚えはじめたころ、何気なくチャンネルを変えたらNHKの特集番組『ETV特集「緊急対談 パンデミックが変える世界ユヴァル・ノア・ハラリとの60分」』が放映されていました。ほぼ惰性ともいえるような態度でみはじめたのですが(すみません)、途中から引き込まれるようになっていきました。

『サピエンス全史』という話題の著作の作者であるハラリ氏から出てくる言葉の1つ1つは深い洞察に富んでいましたが、中でも感染者や感染が疑われる人の追跡に関する部分には強い警鐘を鳴らしていました。ハラリ氏は「感染拡大防止を理由に一般市民の情報を治安機関に渡してはいけない」と語気を強めます(=感染が治まった後にもその効力を消滅させることは難しく、独裁的な支配へと転身する危険性があるため)。奇しくも日本国内では「検察官定年延長法案」が突然押し通されそうな出来事が起きましたが、権力が力を拡大しようとするときには、やはり大きく注意を払うべきなのでしょう。



あいちトリエンナーレ2019で気になった作品の中に、DNA(究極の個人情報ともいえる)をめぐるプライバシーや監視の問題について議論を促す作品を制作するヘザー・デューイ=ハグボーグ(1982年・フィラデルフィア生まれ)の『Stranger Visions』がありました。この作品は公共空間に残された髪の毛や吸い殻、ガムなどから採取したDNAを分析して特定した人物の顔を3Dプリントしたものですが、最新のテクノロジーを駆使すれば、このようなぞっとする作品までつくれてしまうのです。ゴミの中に紛れた個人情報が、悪意ある誰かの手に渡ることの怖さがそこには感じられました。もし、見知らぬ美術館を訪ねたときに自分が想像したくもない姿で展示されていたら・・・いえ、それがもし悪趣味な個人の範疇を越え、権力を持った治安機関が握ってしまうといったケースが生じれば、時勢次第では酷く悪用される事態だってあり得るかも知れません。個人を特定出来る情報を守るというたしなみは、今という時代を生きる上での新たな常識になるのかも知れません。私たちはこうしたことに意識的になっておく必要があるようです。少々、飛躍した考え方かも知れませんが・・・。


例えば日本という国は、自国民に対し“自粛”を法的に強制することは出来ません。強制力でプライバシーを管理される義務も負っていません。強制ではなく国民の努力によって、コロナ禍の第1波を収めようともしています(先はわからないけど・・・)。個人の自立と個人情報を守るという姿勢は、大切にしていきたい私たちのしなやかな強さだと思います。どさくさ紛れのような動きにはきちんと対応し、しっかりと目を開いていかなければ、とも思います。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A13.html



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アートに出来ること(8) [今だから]

「リエナクトメント」という手法があります。これは過去の出来事を再現しようとする試みですが、アートの領域でもさまざまな作品で取り入れられています。『あいちトリエンナーレ2019』では、藤井光(1976年東京都生まれ)の『無常』(2019)がありました。

この作品は、かつて日本統治下にあった台湾で制作されたプロバガンダ映画『台南州国民道場』(台湾の人々が日本人になるための訓練・宗教儀礼を受ける様子が記録されたもの)を愛知県内で働く外国人労働者の若者に映像と同じ集団の身振りをなぞらせたものを撮影し、もとの映像とシンクロさせてみせるというものでした。この作品からは“日本人になる=皇民になる”という意味付けのもとに行われた訓練が、背景のない無彩色のフレームの中で別人が同じ身振りをなぞることで与えられた意味(=課された義務の大義名分)を失い、意味を与えた者に対する疑念が生まれます。2018年の美術手帳8号で江口正登さんはオリジナルと複製との間にはズレが生じることを前提としつつも「リエナクトメントにおいて試みられているのは、その語義が示唆しているように、出来事そのものの外形的な再現ではなく、その出来事において作用していた諸々の力の再発効であると考えるべきであるだろう」と解説されています。



新型コロナウィルスが猛威をふるう現在からみた「過去の出来事」というキーワードで考えてみると、約100年前に流行した「スペイン風邪の大流行」ということが思い浮かびます。当時と現代とでは医学の発展は比べようもありませんが、意味のないデマが飛び交ったことなどは共通しているようです。不安や恐怖はデマのような根拠のない間違った情報(善意と悪意が混在し、それが意図的であるかないかも混在)を拡散します。現代からすれば嘘のような対応をあえてリエナクトメントしてみると、そこに流れているものの正体がみえてくるのではないかと思います。少し離れた視点で今を見つめなおすことが冷静さを取戻す手掛かりになるやも知れないと思うのです。

今回のレビューは、リエナクトメントという手法に注目する形になりましたが、藤井光さんの「歴史的事象を現代に再演(リエナクトメント)する手法で、社会の不可視の領域を構造的に批評する」(あいちトリエンナーレ公式カタログの解説文より引用)という姿勢に“今”を読み解き、前進する術を学びたいとの想いで書き連ねました。うまくお伝えできていれば良いのですが・・・。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/N03.html

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アートに出来ること(7) [今だから]

もともと自分に備わったもの・・・それは例えば肉体、性別、名前といったものがあるでしょうか。では、「もともと」とか「備わった」とされるものは「絶対」なのでしょうか。

あいちトリエンナーレ2019の作品の中で、鑑賞後に涙が出てしまった作品がありました。キンチョメ(2011年結成・東京都拠点)の『声枯れるまで』(2019)です。

私が見ることが出来たのは2つの映像作品。1つめは『私は世治』という11分の作品で、1組の親子が1枚の習字用紙に1本の筆を2人で持ち、先ずはじめに親が与えた名前(女性の名前)を書き、その上に朱書きで子どもが改名した名前“世治”を書く、という一連のやり取りとアクションが収められたもの。こうして文字で説明すると“すんなり”見えるかも知れませんが、“世治”の文字が書かれるまでの間には、“親”と“子”、“こうあるべき”と“こうありたい”といった葛藤がヒリヒリするような空気と一緒に刻まれています。2つめは『声枯れるまで』に登場する3名のうちの1人、アメリカ・テキサス生まれの男性(日本在住)ヘのインタビュー。クリスチャンであること、マッチョな男性が良しとされた故郷の慣習に違和感を感じて改名した彼が、自分で選んだ名前をラストシーンで声が枯れるかと思えるほどに叫び続けるというものでした。自分の中の感覚を認め、感覚に従って生きること・・・それが社会では難しく、その壁を乗り越えるためにどれほどの勇気が必要なのかが突きつけられるのです。ちなみに、“元々と”という言葉の意味には「ある行動を起こす前と後で状態(結果)が変わらないこと」や「ある行動をしても損も得もないさま」の意味合いがあるそうです。ひとは生まれた時点ではゼロ、そこからアクションしていくことで何かがようやくはじまっていく存在ともいえるのです。備わったものもコトをはじめるために使ってこそ、ということなのかも知れません。

私は大人になるころから、なぜ自分が女性という性別で括られなければならないのか、ずっと疑問を抱いていました。女性であることで求めらる容姿や振る舞い。女性であることで受ける差別や傷。もちろん、男性にも同じことが言えることはあるのだと思います。ひとが生まれたときに持つ性別がどうしてこんなにも強く自分たちを制限しているのか、そういったことが不思議であり、疑問であり、どこかに怒りのようなものを抱いていました。だからこそなのか、そうした違和感や疑問を突き詰め、苦しみ、傷つきながらも自分の求める姿を手に入れようとする人たちの姿に涙が出たのかも知れません。


2020年5月、今は世界的に新型コロナウィルスが猛威をふるい、多くの人たちが大きな混乱の中にいます。命の危険にさらされている人もいます。職業を失ったり、今日の生活をどうすればよいのかと迷う人もいます。こうした中では、ひとりひとりの個性というものは見過ごされていくような気がして気がかりなのです。“それどころじゃない”と、目の前で起きていることに必死にならなければならない事態を迎えていることは間違いありません。でも、大きな禍の中にいるひとりひとりは、それぞれの価値観を持ち、さまざまな葛藤を抱えながら生きているということを覚えていたいのです。人類がこれまでもいろいろな困難を乗り越えられたのは、多様な個が存在したからだとも言われています。それぞれに異なる考えを持つからこそ、豊かな知恵や工夫も生まれます。そのひとつひとつを集めて共有していくこと・・・それこそが、私たちのめざすべき姿ではないでしょうか。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/S08.html
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