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アートに出来ること(7) [今だから]

もともと自分に備わったもの・・・それは例えば肉体、性別、名前といったものがあるでしょうか。では、「もともと」とか「備わった」とされるものは「絶対」なのでしょうか。

あいちトリエンナーレ2019の作品の中で、鑑賞後に涙が出てしまった作品がありました。キンチョメ(2011年結成・東京都拠点)の『声枯れるまで』(2019)です。

私が見ることが出来たのは2つの映像作品。1つめは『私は世治』という11分の作品で、1組の親子が1枚の習字用紙に1本の筆を2人で持ち、先ずはじめに親が与えた名前(女性の名前)を書き、その上に朱書きで子どもが改名した名前“世治”を書く、という一連のやり取りとアクションが収められたもの。こうして文字で説明すると“すんなり”見えるかも知れませんが、“世治”の文字が書かれるまでの間には、“親”と“子”、“こうあるべき”と“こうありたい”といった葛藤がヒリヒリするような空気と一緒に刻まれています。2つめは『声枯れるまで』に登場する3名のうちの1人、アメリカ・テキサス生まれの男性(日本在住)ヘのインタビュー。クリスチャンであること、マッチョな男性が良しとされた故郷の慣習に違和感を感じて改名した彼が、自分で選んだ名前をラストシーンで声が枯れるかと思えるほどに叫び続けるというものでした。自分の中の感覚を認め、感覚に従って生きること・・・それが社会では難しく、その壁を乗り越えるためにどれほどの勇気が必要なのかが突きつけられるのです。ちなみに、“元々と”という言葉の意味には「ある行動を起こす前と後で状態(結果)が変わらないこと」や「ある行動をしても損も得もないさま」の意味合いがあるそうです。ひとは生まれた時点ではゼロ、そこからアクションしていくことで何かがようやくはじまっていく存在ともいえるのです。備わったものもコトをはじめるために使ってこそ、ということなのかも知れません。

私は大人になるころから、なぜ自分が女性という性別で括られなければならないのか、ずっと疑問を抱いていました。女性であることで求めらる容姿や振る舞い。女性であることで受ける差別や傷。もちろん、男性にも同じことが言えることはあるのだと思います。ひとが生まれたときに持つ性別がどうしてこんなにも強く自分たちを制限しているのか、そういったことが不思議であり、疑問であり、どこかに怒りのようなものを抱いていました。だからこそなのか、そうした違和感や疑問を突き詰め、苦しみ、傷つきながらも自分の求める姿を手に入れようとする人たちの姿に涙が出たのかも知れません。


2020年5月、今は世界的に新型コロナウィルスが猛威をふるい、多くの人たちが大きな混乱の中にいます。命の危険にさらされている人もいます。職業を失ったり、今日の生活をどうすればよいのかと迷う人もいます。こうした中では、ひとりひとりの個性というものは見過ごされていくような気がして気がかりなのです。“それどころじゃない”と、目の前で起きていることに必死にならなければならない事態を迎えていることは間違いありません。でも、大きな禍の中にいるひとりひとりは、それぞれの価値観を持ち、さまざまな葛藤を抱えながら生きているということを覚えていたいのです。人類がこれまでもいろいろな困難を乗り越えられたのは、多様な個が存在したからだとも言われています。それぞれに異なる考えを持つからこそ、豊かな知恵や工夫も生まれます。そのひとつひとつを集めて共有していくこと・・・それこそが、私たちのめざすべき姿ではないでしょうか。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/S08.html
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