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歴史を紐解き、現在を見つめ、未来を描く・・・① [現代舞踊協会中部支部:連続インタビュー]

◆第1回:現代舞踊協会:関山三喜夫先生

インタビュー日時:2021年6月12日(土) 関山三喜夫・ノリ子舞踊研究所

名古屋市名東区上社にある関山三喜夫先生の事務所を訪れました。梅雨の晴れ間、穏やかな初夏の爽やかさを感じる午後。事務所のテーブルの上には、貴重な資料の数々が山積みになっています。
「たくさんありますので、見て頂きたいと思いまして。」
丁寧にスクラップされた新聞記事や、レトロな書体が踊る公演パンフレット・・・関山先生が舞踊を始めた頃といえば、日本で現代舞踊(モダン・ダンス)が産声を上げ、躍進を始めた時代です。そこに何気なく並んだものはどれも大変貴重なものばかり。同研究所の松宮莉花さんは「先生は、こういうところがとても几帳面でいらっしゃいます。」と、笑います。
関山先生の舞踊人生についてお聞きしました。

[演劇から舞踊へー舞踊人生のはじまりー]
関山三喜夫先生は1930年生まれの91歳。事務所がある2階への急階段も難なくスタスタあがってしまう健脚ぶりで、今でも週に数回のレッスンをこなしておられます。そんな関山先生が舞台芸術にふれはじめたのは中学生の頃。課外活動として“学芸会みたいなもの”を探していたところ、演劇と出会います。関山先生が高校へ進学された頃は“学校で初”となる演劇部(中部日本高等学校演劇連盟)が創立されるなど、名古屋で舞台芸術の裾野が熱く拡がっていく時代でもありました。同連盟主催の第3回中部大会で出演された『どん底』(ゴーリキー作)では、審査員として出席されていた青年劇団の小林正明団長から声をかけられ入団。ここで奥田敏子先生の舞踊講習会を受講されました(昭和24年)。この頃は先にはじめた演劇の稽古場へ月・水・金、火・木を舞踊の稽古場へ通うという生活を送っておられたそうですが、やがて「奥田敏子先生の魅力に惹かれて」演劇から舞踊へと舵を切ります。ここから、関山先生は舞踊への道を極めることになるのでした。

【関山先生の恩師】
 関山先生が舞踊をはじめるきっかけとなった奥田敏子さんは、名古屋出身の1920年生まれ。1935年に江口隆哉、宮操子らのドイツ帰朝公演を名古屋で鑑賞したのをきっかけに江口・宮舞踊研究所へ入門。戦時中は師匠である江口・宮とともに従軍舞踊団のメンバーとして中国・東南アジアで慰問巡演をされ、名古屋における現代舞踊の草分け的存在だったそうです。
 また、関山先生は独立後、奥田敏子さんにも許可を頂き、奥田敏子さんの師匠でもあった東京の江口隆哉さんの元へも通いました(2~3カ月に1度、一般の生徒として講習会を受講)。実は独立前にも上京を考えていたそうですが、江口隆哉さんに「(上京した際には)新聞配達のアルバイトを予約して稽古場に通いたいと考えている」と話すと、「舞踊家が足腰を使うような仕事は絶対してはいけません。肉体を大事にしなさい。独立してから通えば良いから。」と親身になってアドバイスして下さったそうです。

[家族の反対と公務員時代]
日々、演劇や舞踊に情熱を注がれていた関山先生でしたが、お父様が僧侶というご家庭。ご家族は関山先生が演劇や舞踊をなさっていることには大反対だったそうです(お父様が演劇を辞めさせるために学校へいらしたこともあったとか)。このような環境下、高校を卒業するとすぐに公務員として働きはじめますが、稽古場へ通う生活は続けておられました。仕事と稽古場通い・・・関山先生は今でいう二足のわらじをはいた生活を送られていましたが、就職して2年で公務員として吏員に就任。業務での責任は重く、多忙な日々を送られていましたが、『独立してちゃんと発表会を開きたい』との想いも募り、思い切って公務員を辞めてしまいます。青年劇団の小林団長には怒られ、親せきには出入りを禁止されるほど大反対を受けた関山先生。この時は自宅に帰ると『・・・今にみとれ。』と悔しさを噛みしめたそうです。「・・・今思い返すと、それが良かったのですが。」と語る穏やかな関山先生の表情からは想像もできない、内に秘めた情熱を強く感じるエピソードです。

【昭和中期の名古屋での舞踊・演劇】
 関山先生がご自身の舞踊研究所を設立されたのは昭和32年(1957年)。前年の昭和31年には『全日本芸術舞踊協会結成記念、舞踊劇場建設推進 全国舞踊合同公演』が、翌年の昭和33年(1958年)には『全日本芸術舞踊協会中部ブロック 第1回公演』(が開催されるなど、全国的にも名古屋においても舞踊が大きく脈動をはじめた頃でした。当時は名古屋舞踊協会という団体があり(名古屋市の管轄)、バレエやモダンといった領域による垣根はなく、日本舞踊の舞踊家も同じ団体に所属していたそうです。

【同時代の舞踊家】
 昭和35年(1960年)、関山先生はソロ作品『赤い花』で『モダン・ダンスの会』に出演します。この会は江口隆哉に学んだ舞踊家による舞台だったそうで、出演した舞踊家は浅川高子、小沢久子、金井芙三枝、木村百合子、工藤昇三、砂川啓介、正田千鶴、牧野京子、平山洋子といった面々。金井芙三枝さん(1931年生まれ)や正田千鶴さん(1930年生まれ)は同世代、後に(1964年)アメリカのマーサ・グラーム舞踊学校へ留学した木村百合子さん、砂川啓介さんは初代・体操のお兄さん(NHKのTV番組)といった若くバラエティーに富んだエネルギッシュなメンバーだったようです。日本の現代舞踊は、こうした若く情熱にあふれた先人たちが道を切り拓いてきたのですね。

【作品創作で大切にしていること】
 関山先生はこれまでに代表作である『たこ』の他、たくさんの舞踊作品を生み出してこられました。作品づくりについて、関山先生の想いを伺いました。
 「私は若い頃、演劇の先生に叱られながら稽古していた経験もありましたので、“今にみとれ”、“やったるがや”と思いながら一歩ずつ前に進んで来ました。理想的な道のりというより、いつか見返してやろうという想いが原動力になっていたと思います。私の最初のリサイタルの作品はサラリーマンが主人公(『サラリーマン7景』1959年初演)。自分自身が公務員として働いていた時の想いを作品化していました。音楽を使わず、冒頭に「バカ野郎!」と叫んではじまる作品もありましたね。」
 作品の根底には未来への希望と反骨精神を持つ関山先生ですが、作品創作で大切にされていることは、どんなことでしょうか。
 「40歳で結婚した後、幸せなことに海外へ旅行する機会に恵まれました。訪れた国々は140ケ国ほどでしょうか。私は自然が好きで、ヨーロッパよりもアジア・アフリカ方面へ好んで旅することが多かったですね。土地の人と交流することも好きでした。ある時、ミャンマーへ旅したのですが、そこで感じたのは現地の若者のエネルギッシュさ。ニュース報道で聞いていた国の不安定さとは裏腹に、前向きに生きる若者たちの姿が印象に残り、帰国してから『あなたの目の中に』という作品をつくりました。」
関山先生は素朴でピュアな自然、逆境に負けずひたむきに生きる若いエネルギーからインスピレーションを受ける一方、宗教観を感じさせる作品『親鸞』(1968年初演)やご自身の戦時体験から『焦土に散りし涙よ』(1984年初演)、高齢化社会をテーマにした『老人天国』(1988年初演)といった作品もつくってこられました。関山先生の長い舞踊人生は、私たちが生きている社会や、そこで起きている問題ともリンクしながら刻まれているのですね。
 
【舞踊をはじめた人・はじめたい人へのメッセージ】 
最後に舞踊に取り組んでいる人や、これからはじめたいと考えている人にメッセージを伺いました。関山先生は、現代舞踊は「ジャンルに関係なく自由に作品づくりが出来る」ことが魅力だと言います。だからこそ「長く続けることが出来た」とも。「作品を通して少しでも感動して下さる方がいて下されば、こんなに幸せなことはないですね。芸術は人に感動を与えるということがとても大切だと考えています。ひとりよがりの表現にならず、どう伝えていくかを考えていくことが重要。私が最初に感動したのは江口隆哉の『スカラ座のまり使い』(1935年)。そこにはない“鞠”が、あたかもそこにあるかのような動き、シンプルな動きの中に想像を掻き立てる舞踊の原点を見たように感じました。若い方へのメッセージは・・・言葉で単純にお伝えすることは難しいですが、背伸びしないでまじめに続けて行って頂きたいと感じます。舞踊家は身体で表現していくことを大切にして頂きたいですね。」

 インタビューでは終始、穏やかにお話をして下さった関山先生。80年近くに及ぶ舞踊人生の一端をお聞きする中で、日本や現代舞踊の歩みにもふれさせて頂く貴重な機会でした。激流のような現代社会の中で、今一度、自分の感覚と向き合いながら身体を通して表現していくことの豊かさを教えて頂いた・・・そのように感じました。関山先生のインタビューをまとめるにあたっては、私の恩師である山野博大先生の著書『踊る人にきく‐日本の洋舞を築いた人たち‐』を参照させて頂きました。その膨大で緻密にまとめ上げられた情報にふれ、改めて山野博大先生の舞踊への愛情や功績の偉大さを強く感じました。これから現代舞踊協会のみなさまへの連続インタビューを通して、山野博大先生の歩まれた舞踊批評家のお仕事もご紹介していきたいと思います。

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歴史を紐解き、現在を見つめ、未来を描く・・・前書き [現代舞踊協会中部支部:連続インタビュー]

「歴史を紐解き、現在を見つめ、未来を描く・・・」をテーマに、現代舞踊協会・中部支部のみなさんへの連続インタビューシリーズをスタートします。


<少し個人的な前書き>
コロナ禍で人と人とが自然にふれあうことが稀少化し、これまで「当たり前」だと思っていたものやことが突然失われる時代に私たちは否応なしに投げ込まれました。
劇場で時々顔を合わせる大先輩、舞踊評論家の山野博大先生のご逝去もこうした激動の月日の中で経験した突然のお別れでした(2021年2月5日ご逝去)。いつも恐縮しすぎて、きちんとご挨拶することもできていなかったこと、思いがけず届けて下さる公演情報をまとめた資料、「よくがんばっている」とお褒めの言葉を周囲の方に先生がお話していらしたとの風の便りを耳にしたこともありました。
・・・なにもできていない。
私は先生のご逝去を知り、悲しさと恥ずかしさと後悔の想いに愕然としました。今さらではあるけれど、もっと頂いた真心にお返しをしたかった。

そんなある日、名古屋で開催された洋舞公演を拝見する機会がありました。
そこで感じたのは『この場をつくってきた人たちの〝想い=歴史〟を今、残さなければならない』という強い衝動でした。

山野先生が生前におっしゃった言葉に
「(今は記録映像などもあるが)評論家の言葉が歴史を記録してきたんだよ。」というものがありました。その時代を生きた人の言葉だからこそ時代を語ることができる、だから自信を持ってあなたにできることをやっていきなさい・・・そんなメッセージでした。
私はまだまだ拙い存在ではありますが、ここ中部で活動される舞踊家や芸術家の言葉を自分の耳で聞き、語る人の目を見て、歴史を刻む一助になりたいと考えました。歴史を紐解き、現在をみつめ、未来を描く・・・そんな新たな取り組みを始めます。

最初のステップは現代舞踊の世界で活躍されるみなさんのお話を紐解きます。山野先生と同世代を歩まれたみなさまから、中堅として活発に活動されるみなさま、初々しい新人のみなさまと、さまざまな世代のみなさまに言葉を頂きます。

この活動をお世話になった山野博大先生と、これまで私にインスピレーションを与えて下さったアーティストのみなさん、拙い文章にお付き合い下さる読者のみなさまに捧げます。長い旅になるかも知れません。どうぞ気長にお付き合い頂けましたら幸甚です。

             2021年10月6日 Arts&Theatre→Literacy 亀田恵子

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