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アートに出来ること(13) [今だから]

私は昭和生まれなのですが、昭和・平成・令和と思いがけず3つの元号を生きることになりました。戦争こそ経験はしていませんが、樺太から最後の引き上げ船で日本にやって来た母親の体験談はまだ聞ける状態ですし、そこからの自分の命の繋がりを考えれば、やはり激動の時代を生きてきているんだと感じます。1995年の阪神大震災の時には、会社の食堂に設置されたテレビで焼け野原になった神戸の街をみて愕然とし、2011年の春は足のケガで自宅療養中でしたが、東日本大震災で津波が街を飲み込んでいく映像を目にして激しい哀しみに打ちひしがれました。

私自身が2005年くらいからアートに関わるようになったこともあり、2011年の震災後のアーティストの動きは自然と注視していましたが、当時、表現活動に関わる人たちは大きな苦悩を抱えていたように感じました。身近なダンサーで「自分に何が出来るのかわからなくなった」といって踊るのをやめてしまった人もいましたし、あまりに直接的な表現を含んだ作品を上演してかえって人々を傷つけたのではないかと思われる事態も生じていました。動けばいいのか、動くとしてもどう動けばいいのか。社会はそんな逡巡に満ちていました。人智をはるかに超える状況を前に人はどうすればいいのだろうか・・・アーティストたちは大きな課題にぶち当たっていたのです。


「作品化」するという行為は、つくり手がどのように事象を受け止め、どう“解釈”したかをある構造の中で提示するものだとして(諸説あると思いますが)、その“解釈”の部分がアーティストのセンスであり、力なのだと思います。センスと力は、鑑賞する人々の心を動かすものであり、社会をも動かしていくもの。だからこそ、アーティストは自分が生み出す作品が人に、社会に、どのようなインパクトを与えるのかも考える必要があるのだと思います。2011年の例をとるなら、災害直後で現実に打ちのめされている人々に同じような光景を再現して見せることが、鑑賞者をどのような心情にさせるのかは考慮されるべきですし、あえて傷をつけるのであれば明確な目的とそこに伴う責任も負う覚悟は必要です。自分の作品で伝えたいこと(メッセージ性を持たせない作品もありますが)を、どういった状態の社会に、どのような手段で表現するのか。こうしたことを考えることがアーティストにも求められるのだと思います。



前段が長くなってしまいましたが、あいちトリエンナーレ2019で上演された演劇作品に、こうしたことに対するヒントになると思える作品がありました。ミロ・ラウ(1977年・スイス生まれ:IIPM) + CAMPOの『5つのやさしい小品』です。


この作品は、90年代にベルギー社会を震撼させた少女監禁殺害事件を当時の報道や証言を踏まえ、7人の子供たちが「再演」したもので、事件そのものについては、当時のベルギーではあまりの痛ましさと小児性愛という闇の部分を含んでいたため、話題にあげるのも忌避されていたようです。そんな強烈な痛みを伴う事件をミロ・ラウは丹念に調査し、犯人・被害者ともに“子どもたち”に演じさせることで、状況を異化。生々しい痛みといったん距離を置いて状況を見つめられるような仕掛けを施しています。

この作品がこうした手法を取ったのは、残忍で歪んだ性愛者の心情を描くことが目的ではなく、ベルギーという国が抱えていたさまざまな課題を暴くためでした。なぜこうした犯罪が起きたのか、犯人がどのような状況に置かれた人物だったのか、そうした本質に迫るために登場人物たちを(1名だけ大人が登場していたように記憶しています)子どもたちに演じさせるという手段を選択したのです。


コロナ禍のただ中にある今、社会ではさまざまな変化や痛みが生じています。アーティストと呼ばれる人々は、この状況からきっと作品を立ち上げていくことになると思いますし、それが彼らの使命でもあります。この状況をどのように解釈し、社会に向けてどのように表現していくのか。そこには作り手のセンスと力が問われます。とても大きな課題ですが、今だからこそ、この難題に果敢に取り組んでいってほしいと願いますし、私自身も挑んでいきたいと考えています。

https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A61.html
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