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アートに出来ること(6) [今だから]

同じ釜の飯を食った仲・・・そんなことわざがあるほど、生活を共にしたり同じ職場で働いたりして苦楽を分かち合った親しい間柄には、何か不思議な暗黙の了解というか、言わずもがなわかってしまう部分が生まれる不思議さがあります。


アンナ・ヴィット(1981年ドイツ生まれ)の<<未来を開封する>>(2019)には、自動車産業で働く人々の仕事の中における動作や、労働や余暇について議論する場面などが映像化されています。実はこの作品には地元・豊田市のサポーターとして関わっていました。学芸担当の方から自動車製造業の知り合いの紹介をご依頼いただきましたが、そのやり取りの中で、当時自分が会社員として担当していたコミュニケーションロボットについてもご紹介しました。結果、そうしたやり取りにアンナが元々興味を持っていた産業都市や労働者同士の自主組織なども絡め、作品に参加した製造業に携わるメンバーが何度も彼女と議論やワークショップを重ねながら作品がつくられていくことになりました。AIが日々進化する現状で、製造現場の仕事はやがてAIが取って代わるかも知れないという当事者にとってはギリギリの質問なども交わしながら、そうした未来はユートピアなのかディストピアなのかについてみんなで考えました。

メイン映像ともいえる働く人々の動作をダンス化したシーンは、アンナの振付というものではなく、その場に集まった同じ会社の人々(担当業務はそれぞれ異なる)がそれぞれの日常動作を見せ合い、真似あい、日ごろからアートが好きだという課長クラスのメンバーが少し声かけをするような進行ですんなりとまとまっていきました。現場に居合わせた私には(私も同じ製造業で働いている)ごく自然なものに思えましたが、アンナや学芸担当者には、そのあまりの自然さに驚きが隠せないといった様子でした。私には彼女たちの驚きの方が新鮮でしたが、出来上がった映像をみて納得してしまいます。アンナの編集や文脈の整え方が秀逸というのは間違いないのですが、それでも即興で出来上がっていったダンスは美しく、息のピッタリとしたものだったからです。作品ではロボットが自動車を製造していく映像も折り込まれています。人と機械やAIが共存する、そんな美しい世界をアンナが描いてくれたような気がして、とても明るい気持ちになったのでした。これは、同じ会社だから、同じ業種だからというだけでなく、労働するという行為を持つ者同士・・・拡大解釈が許されるなら、同じ問題意識や価値観を共有する関係性であれば言えることかも、知れません。


人と人との接触を抑えるためのリモート生活、どうしても人が現場に来ないと成立しない仕事・・・今、私たちの目の前には“生身の人間”が“仕事”とどう関わるかという視点で現実を見つめ直す機会が訪れています。どちらかに完全に振り切れることはなく、ギリギリの分割線があいまいに見え隠れしています。自由な生活に制限が加えられる苦悩、命の危険を感じながらも現場に立たなければならない苦悩、両者ともにこれまでの在り方から変わることを余儀なくされています。でも、私たちは苦悩の末に(コロナとの)“共存”という未来を開封するための鍵を見つけられると信じたいのです。重ねた議論の結果に、単純なディストピアでもユートピアでもない、両者が共存する未来が描かれたということを知っているから。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/T05.html
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アートに出来ること(5) [今だから]

私たちは既知のものにふれている限りは、疑いの目を向けたり改めて考えなおすといったことはしないように思います。また、よく似たものが並んでいる時や、どこか違っているけどハッキリとはわからないようなときにも私たちはあまり積極的に考えはじめません。でも、目にしたものが“知っている姿とかけ離れている”としたらどうでしょうか?


新型コロナウィルスが世界中で猛威を振るっている今、各国ごとに対応方法は異なっているようです。また、政治を司るトップの立ち振る舞いも違います。どの国の対応が正しくて、どの国のリーダーが正しいのか。そもそも政治とは何をなすべきもので、国のリーダーとはどんな振る舞いをすべき人なのか。国ごとに状況も異なり、人類にとって未知のウィルスへの対応は終息を迎えてみるまでどれが正しいかなど判断できません。時代の渦中にいる私たちには現実を俯瞰して見つめることは難しいのかも知れません。

少し変化球のようなレビューになりますが、私はあいちトリエンナーレ2019で拝見した劇団アルテミス+ヘット・ザウデライク・トネールの『ものがたりのものがたり』の中からヒントを見出してみようと思います。


『ものがたりのものがたり』は、劇団アルテミスとヘット・ザウデライク・トネール(ともに1990年設立・オランダ拠点)の2劇団の共同制作で「子供の目線から世界を捉える」姿勢でつくられた作品。シュールでシニカルな作風には“笑い”が昇華機能として働き、鑑賞後は痛快さを伴います。本作は「劇場に住み着いた先住民」「トランプ一家(に見えるオランダ人家族)」「オブジェの劇」「『旅するものがたり』についての物語」という4つの要素が絡み合いながら進行していくため、大人の真面目さで立ち向かうと挫けそうになるのですが(笑)「トランプ一家(に見えるオランダ人家族)」に焦点を当て、冒頭の問いかけに応答してみようと思います

この「トランプ一家(に見えるオランダ人家族)」、父親のハンスはトランプ大統領、母親のリアは歌手のビヨンセ、8歳の息子サンダーはサッカー選手のロナウドで、それぞれ巨大な写真を板に貼ったハリボテとして登場(アテレコも男女が反転された状態)。楽しいピクニックに来ているらしい家族ですが、その会話はどこか噛み合わず奇妙な焦燥感が流れています。どこをどうとっても「強い違和感」でいっぱいなのです。そもそもトランプ大統領とビヨンセとロナウドの家族って在りえない。母親の声が男性で父親の声が女性なんて奇妙過ぎる。ペランとしたハリボテが超巨大!!!・・・そこで鑑賞者は考え始めるはずです。『・・・じゃあ、母親ってどんな感じだったけ?父親ってどうふるまっているのだっけ?』強い違和感のパンチを食らって、“そもそもに立ち返ろうとする・・・”この作品のモチーフには、そんな力があるように思えます。

想像力を駆使して、自分の国がコロナとどう向き合っているのがいちばん良い姿なのか、自国のリーダーはどうあってほしいのか・・・極端に振って最悪ケースや大笑いするしかないケースを想像してみると、そこに自分なりの指針がみえてくるかも知れません。政治、行政、免疫学、統計学、人道的精神・・・さまざまなことが絡み合ってよくわからなくなる現状だからこそ、ユーモアをたっぷり注いで自分なりに考えてみることが大切。正解ではないかも知れないけれど、自分なりに考えた終息の姿を持つことで過剰に翻弄されることも避けられるように思えます。ユーモアをジャンプ台に想像力をフル活用。どんな状況であっても、大切なことではないでしょうか。そう、どんな時にも自分で自分を“クスっ”と笑わせることの出来る大人のゆとり、持っていたいじゃないですか。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A68.html


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アートに出来ること(4) [今だから]

人と人との接触を8割減らす・・・この表現をはじめて耳にした時は我ながら混乱しましたが、その具体的な実現のためのシュミレーションを目にして更に混乱が深くなったのは言うまでもありません。私たちは、なんと多くの人と関わりあって暮らしているのでしょう。人と人との接触を8割減らすことなど非現実的に思えるほどです。

それでも日々、テレビやネットでは、人であふれかえっているのが当たり前だった渋谷や道頓堀などの閑散とした様子が映し出され、自分の感覚と非現実が現実化された世界の乖離に驚かされます。イギリスのロックバンド、ザ・ローリングストーンズが8年ぶりに発表した新曲『リヴィング・イン・ア・ゴースト・タウン』でも、こうした閑散とした街角と自由に外へ出てゆけない現状が描かれています。



“街があるのに人がいない”・・・これまでの世界観からすれば奇妙でしかない今のような景色。でも、それは『あいちトリエンナーレ2019』の作品の中でもみかけていました。袁廣鳴:ユェン・グァンミン(1965年台北(台湾)生まれ)の『日常演習』がそうです。この映像作品の中で、台湾の大都会が空撮された風景に生活の色はなく、街角には誰もいません。ただけたたましいサイレンだけが延々と流れているばかりです。私はこれを目にしたとき、当然のように「人工的な合成映像」だと思いました。現実的な場所に誰もいないということは非現実でしか在りえないと考えたからです。でも、実際は違いました。この映像は現実のもので、1978年より続く「萬安演習」という防空演習の1コマなのです。興味深いと感じるのは、この演習が台湾の高齢者や外国人にとっては戦争の影を感じさせるものの、若者にとっては毎年の見慣れた行事になってしまっているということ。

新型コロナウィルス拡散防止のための外出自粛生活。誰もいない街角が非現実ではなく、ありふれた現実の世界として描かれるとしたら・・・“アフターコロナ”という言葉がささやかれはじめた今、この作品が提示した平和な日常に潜む戦争への脅威は、また新たなる戦いの脅威を孕んだ世界の到来を予感させるように感じます。もちろん、このような予感は外れてしまえと願うばかりなのですが・・・。


https://aichitriennale.jp/2019/artwork/A20.html
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アートに出来ること(3) [今だから]

*以下、職場環境や職種によって在宅が難しかったり、在宅では完結出来ないお仕事もある中、少し私自身の置かれた環境下で文章を綴ることをお許しください。


2020年5月1日、在宅勤務をはじめてちょうど1ケ月が経過しました。不思議なもので、通勤に費やす時間が短縮されて余裕が出来たはずなのに、かえって気持ちにはスキマがなくなったような閉塞感を感じます。それでも1日に1度のオンラインミーティングでは、所属チームの上司がメンバーの出欠確認をとることが新たな日課となり、交わされるささやかなジョークや何気ない報告が元気をくれるようです。

このような新たな日常の中で、私のいちばんの楽しみは小さな鉢植えの中の植物の生長を見ることになりました。町の農協で購入してきたときには少し弱々しいほどだったエンドウが、今ではすっくと伸びて小さなツルをあちこちに巻き付けて花を咲かせるようになりました。その瑞々しい茎や葉っぱ、何よりその勢いはずっと見ていても飽きないほどです。植物はその場にいて動かないように見えるのに、日々確実に成長しています。私は植物たちの逞しい姿にふれることで、突然やって来た新たな日常に戸惑う自分を鼓舞しようとしているのだと思います。


あいちトリエンナーレ2019のプレオープンの際、私は豊田市美術館のフロアで横になっていました。天井を眺め、目を細める姿は、まるで草原で星空を眺めるような恰好だったかも知れません。スタジオ・ドリフト(2007年スペインで設立)の『Shylight』を鑑賞していたのです。

彼らの作品は、植物の花や葉が光量や温度にあわせて開閉する、就眠運動と呼ばれる動きを詳細に観察・解析して設計されたもので、白い布が空気をはらみながら、閉じたり開いたりしながら上下に動くのが特徴です。じっと見上げていると、蕾が蓄えたエネルギーをゆっくりと解きながら微笑みかけてくるようでもあり、キラキラといたずらな瞳を輝かせながら舞い降りてくるようでもあります。そして昼が過ぎ、夜が過ぎ、また朝が来る・・・というような時の流れが過ぎていく。そう、気づくと幾日もの時を過ごしているかのような錯覚を覚えるように、ずっと眺めていて飽きない時間と空間がそこには在るのでした。


自然の中にある美の規律を見つけ出し、現代的なテクノロジーで再構築するスタジオ・ドリフト。彼らの作品にも、植物たちが持つ“人を勇気づけ、和ませてくれる力”が存在しています。私たちはこれからもさまざまな環境の変化を経験していくかも知れませんが、自然のやさしさやテクノロジーの力を借りながら挫けず、乗り越えていきたい・・・そんなことを思います。

https://aichitriennale.jp/2019/artwork/T11.html

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アートに出来ること(2) [今だから]

人や生き物に限らず、あらゆるものは弱くなった時にこそ露わになる部分があるのだと思います。それは例えば社会にしてもそうではないでしょうか。通常運用のような状態の時には「大多数」というものの影に隠れて(隠されて?)いる存在・・・社会弱者といわれる人たちの存在などがあげられると思います。


新型コロナウィルス拡散を食い止めるため、多くの方々が移動の自由をいったん棚上げにして留まることを実行されています。それは「STAY HOME」というキャッチコピーに表されていますが、私には家という場所にいることで危機に晒される女性や子供たちのいることが気がかりです。

本当に悲しいことですが、家庭内暴力や性的虐待に至るギリギリで何とか均衡を保っている状況が行き場を失うことによって崩れているケースがあると聞きます。・・・もちろん、ギリギリの均衡を保つことがキモなのでありません。日頃からそのような状況にある人たちを救い出す仕組みが機能しているべきなのです。社会が手を差し伸べきれないが故に「ギリギリの均衡」に身をゆだねさせてしまっているのです。


私が『あいちトリエンナーレ2019』でVTSに取り組ませて頂いた作品の1つに、モニカ・メイヤー(1954年メキシコ生まれ)の『The Clothesline』があります。会場内には目に鮮やかなピンク色のフレームが立てられ、美術館の一角にちょっとしたコミュニケーションスペースのような場を作り出していました。フレームには横糸が張られていますが、そこに淡いパープルやピンク色のカードが大量に、洗濯ばさみのようなものでズラリと留められています。フレームと同色のエプロンもかけられ、それらはどこかキュートでポップな女性性を強調しているかのようでもあります。ですが、留められたカードの文字に目を通すと多くの人がハッと息をのむかも知れません。カードにはカラフルさと相反するような、性にまつわる差別や抑圧、 暴力についての問いかけに対する女性たちの痛みや苦しみに彩られた言葉が綴られているからです。語られなかった想いや苦悩がカードの数だけ、いえ、それ以上に存在していることに気づくとき、私たちは世の中に埋もれていく「声無き声」の存在を突き付けられるのです。

社会全体が弱ったとき、隠れたところでギリギリにあったものたちも崩れていきます。でも、全体が危ういからといって見過ごされてしまってはいけないのです。そんな時だからこそ、小さくても少しづつでも救うための力が集められなくてはならないのではないでしょうか。

VTSは鑑賞者が作品を見つめながら鑑賞者自身の内側に沸き上がった想いを言葉にします。ある鑑賞者の言葉に今起きていることへのヒントがあるように感じます。「小さなテーブルとイスが、パーティションのようなカードの壁に守られているように見える。けれども完全には閉じていなくて開かれているようにも見える。」傷ついた人を守るのは同じ痛みを知っている人々の言葉であり、それは社会に開かれた議論の中で解決の糸口を模索していくことが必要・・・そのように感じられるのです。

https://aichitriennale.jp/2019/artwork/N04.html

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アートに出来ること(1) [今だから]

2020年の3月末ごろから、日々の終わりに気になって探してしまう数字があります。それは新型コロナウィルスの感染者数。『2桁になった、3桁を超えた、月曜日は検体の受け入れ数が少ないから減少する・・・』数字の浮き沈みに一喜一憂する自分がいます。それでも「数字」という記号を見つめる時、そこにどれだけ多くのことをリアルに感じ取っているのかについては実感が持てない自分も同時にいるのです。

『あいちトリエンナーレ2019』で出会った作品を思い出しました。タニア・ブルゲラ(1968年キューバ生まれ)の『10150051』です。

入り口で手の甲に押される8桁の黒文字のスタンプ。それは世界にいる移民の数を示していて、日々増えていきます。観客は、スタンプを押されるとそのまま何もない白い部屋に通されますが、空間は強烈なミントのような香り(成分、といった方が適しているかも知れません)で満たされていて、多くの人は目に強い刺激を覚えて涙をこぼしてしまいます。

作家は、観客に強制的に涙を流させることで、数字という客観的な文字列に込められた悲しい出来事を体感させようとしたのだと思います。

私はタニアの作品を鑑賞したあと電車に乗って帰宅したのですが、ふと見た手の甲の文字は半日も経っていないというのに既に汗に滲んで消えはじめていました。ついさっき流した目の痛みも涙の感触すら薄れていました。そしてハッとしたのです。こんなにも人は誰かの痛みを日常の中で忘れていくのかと。


日々探してしまう感染者の数。そこに何が、どれだけのことが詰まっているのか。誰かが苦しみ、命を失い、失われようとする命を必死で救おうとする闘いがあるのか・・・改めて自分の感覚としてとらえる必要があると思います。ニュースキャスターは何度か同じ言葉を繰り返していました。「想像すること」・・・アート作品たちは「想像すること」を通して何かを訴えています。そしてそれは、決して遠くにあることでもなくなってきているのです。今、すぐ近くで起きているということ、それすら想像できなくなっていないでしょうか。

https://aichitriennale.jp/artwork/A30.html

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アートに出来ること(前置き) [今だから]

新型コロナ拡散防止のため、不要不急の外出が求められるなど、さまざまなことに制限が生じています。私の大好きな美術館も劇場も閉館されていて、自分のからだを作品に近づけて鑑賞する機会はほぼ失われています。

こんな時、鑑賞者でありアートに関して発信をする立場にいる自分に何ができるのか・・・この問い、実は昨年開催された『あいちトリエンナーレ2019』の喧噪の中でも感じたことでした。当時、私が選んだのは名古屋市美術館でVTS(みんなでアート作品を鑑賞し、ディスカッションすること)を実施することでした。そこに込めたのは「作品に重ねられる思惑に左右されることなく、なるべく純粋に作品と向き合うことを体感し、自分自身の中に芽生える感覚を信じたい」というものでした。

『あいちトリエンナーレ2019』では、さまざまな思惑が大きな波紋を生み出し、私自身にも作品1つ1つをきちんと受け止める余裕はなかったかも知れません。そこで、あの喧噪が落ち着き、アートの存在意義が問われているコロナ禍の中にある「今だから」こそ、出来ることがあると考えました。

これからしばらく時間の許す限り『あいちトリエンナーレ2019』の作品たちを通し、社会にとってなぜアートが必要なのかを「今だから」語れる視点で振り返っていこうと思います。もちろん、作品の価値を単純な時勢に閉じ込めるのが意図ではなく「困難な時にこそアートが真価を発揮するのだ」という私の想いを添えて丁寧に読み解いてみようと思います。

どうぞ、お付き合い下さいませ。

 2020年4月28日 Arts&Theatre→Literacy 亀田恵子

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